スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「文藝春秋」特集が暴いた皇太子対官僚の構図

今夜はFC2のほうで画像UPが出来ないので
前の保存ですが全部コピペです。売り切れとかの「文藝春秋」の2008年版
への反論? 上・中・下 と長いですが。 なるほど!


-------------------------------------------------

① 宮中の支配者=官僚たちの「黒い野望」(上) 「文藝春秋」特集が暴いた皇太子対官僚の構図
田中良太2008/07/23
「文藝春秋」の皇室特集を読むと、雅子妃への「批判」なるものは、宮内庁官僚たちの傲慢な発言がそのままメディアを通じて国民の前に流されている構造が分かる。「天皇はこちら側に立っている」という絶対の自信が、宮内庁官僚たちに「小和田家が雅子妃を引き取れ」などとまで言わせているのだ。問題は宮内庁官僚の側にある。

◆悪趣味な企画
 月刊誌「文藝春秋」が8月号(7月10日発売)で2度目の皇室特集をやっている。特集「皇太子、雅子妃への手紙-批判の嵐の中で」である。皇太子は1960年2月生まれで48歳。立派な壮年である。その人物にアドバイスめいた公開の手紙を書かせるという悪趣味な企画だが、読んでみると、「雅子妃問題」というのは、じつは宮内庁官僚の問題だということが分かる。

 ◆48歳の人格を無視
 皇太子の言動を「職業」と同一視するのは問題があるにしても、社会的活動である点では同じことだろう。48歳にもなって、自分が望んだわけでもないのに、「オマエはこうしろ」と意見してくる人間がいたとしても、私なら聞く耳は持たない。外部の人間が意見してくることなど、当人が考え尽くしていることがほとんどなのだ。その意見そのものは正しいにしても、置かれた場の現実など勘案すると実行できないといったケースも多い。
 まして文春というメディアにその意見を公開するなど、本人たちが「不甲斐ない」「思慮が足りない」と言っているようなもので、どう考えても「やり過ぎ」としか思えない。皇室のメンバーにも人格はあるのだ。それを無視するような企画は、許せないというのが「第一感」だった。

 ◆猪瀬直樹氏の勧告
 例えば東京都副知事の作家、猪瀬直樹氏の文章は<「鬱の時代」に埋没しないために>というタイトル。結びの文章は

 <雅子妃に申し上げたいのは、伝統的な祭祀はどこかでこころの安定感に寄与しているはず、と思うこと。もうひとつ、スケジュールに関しては官僚機構との実務的な交渉役を選任すること。役所の都合に振り回される必要はありませんから。> である。

 ◆4月号の続編
「文春」のこの企画は事実上、4月号で座談会として行った「引き裂かれる平成皇室」の続きである。この座談会のことはこの「大気圏外」でも、3月14日付「天皇家はどこへ行く?」で論評した。その中で精神科医・斎藤環氏が、雅子妃の病気について、

 <宮中祭祀の問題も大きいと思います。(中略)プライドがあって、職業的にも自立した女性は、そういう儀式に非合理なものを感じて、拒否反応を示す傾向が高いといえるでしょう。これはなかなか理解されないことですが、本人にとってはとてもつらいことなのです>

 と言っていることを指摘しておいた。猪瀬氏の文章は当然この指摘を前提としているのだろう。

 ◆努力してもどうにもならない「心理」
 雅子妃は「伝統的な祭祀はどこかでこころの安定感に寄与しているはず、と思うこと」に努力されたはずではないか? しかし人間の意識的な努力には限界があり、意識下の「思えない」心理の方が強い力を持つ。だからこそ精神を病むに至ったのである。その人に「思うこと」などと言ってすましていること自体、皇太子が指摘した「人格否定」そのものだろう。

 ◆甘すぎる官僚認識
 「スケジュールに関して」の「官僚機構との実務的な交渉役」にしても、宮内庁をとり仕切っている官僚たちが許容するかどうか? 猪瀬は道路公団の問題で官僚とやり合っていたはずなのに、まだこんな甘いことを書いているのか、とあきれてしまう。

 ◆容認できない「雅子さま制」?
 「手紙」の1通となっている斎藤環氏の文章は以下のように書いている。

 <宮内庁の高官はジャーナリストの佐野眞一氏にたいして、この座談会から「やはり環境を雅子妃にとって過ごしやすいものにする以外、治療方法はないでしょう」という私の発言を引き合いに出し、この考え方を敷衍すれば、天皇制は雅子さま制に変わるということです。到底容認できません」と言ってのけたという(「中央公論」7月号)。

 ◆「小和田家が引き取るべきだ」
 もうひとつジャーナリスト、友納尚子氏の「手紙」も

 <問題は、直接東宮職に伝えるのではなく、宮内庁幹部としか思えないコメントがメディアを通じて流されることだ。なかには、環境に適応できなければ「小和田家が引取るべきだ」とまで吹聴する人物もいるという報道もあった。> と書いている。

 ◆官僚の傲慢さ丸出し
 「小和田家が引き取れ」というのは、明らかに「離婚させよ」ということだろう。もちろんそれは皇太子の意思に反しているし、天皇の離婚など前例がない。そのあり得ないことを、「小和田家の意思」だとして実現させようという言葉である。

 いま宮内庁にいる官僚たちは、ここまで傲慢になっているということを示す言葉である。

 ◆宮内庁を牛耳る官僚OB
 宮内庁長官は羽毛田信吾氏。1942年4月生まれ、65年京大法卒で厚生省入りし、99年厚生事務次官に就任。省庁再編によって厚労次官となり2001年1月退官。同年4月宮内庁次長となり05年4月、長官に昇任した。前任の湯浅利夫氏もまた94年から自治事務次官。00年4月から宮内庁次長に任命され、01年4月長官に昇任した。現在次長の風岡典之氏も1946年生まれ、69年東京教育大卒の建設官僚。03年7月から1年間国土交通事務次官をつとめ、05年4月宮内庁次長に発令された。つまり宮内庁長官ポストは各省官僚の「上がり」ポストになっているのである。

 ◆羽毛田長官の「苦言」
 羽毛田長官は今年2月13日の定例会見で「愛子さまの参内が依然少なく、両陛下も心配しておられる」と発言した。これが皇太子夫妻に対する「苦言」とされ、メディアに話題を提供した。

 ◆「参内は単なる例示」?
 この発言について「読売」は同月23日付の「スキャナー」のテーマとし、以下のように書いている。

 <参内の回数が少ないことに対する「異例の苦言」と報じられたが、真意は皇太子さまに、参内の機会を作るという昨年2月の発言の実行を強く促すことにあったという。

 「参内は一つの例示。長官は『発言を大切に』と何度も繰り返しており、約束を果たして下さいというメッセージだった」。関係者はこう説明した。

 ◆天皇が納得していない?「人格否定」発言
 長官が「発言」にこだわるのは、皇太子さまが2004年の会見で述べられた公務の見直しや、人格否定発言などに対し、「真意がよくわからず、その後の説明も不十分だったのではないか」との思いが両陛下周辺にあるからだ。

 「あの時、陛下は皇太子さまに国民への説明を求められたが、両陛下はその説明に納得されず、皇太子さまの発言は軽いのではないかと心配されている。今回も同じだ」。別の関係者はそう語った。

 ◆発言に厳しい天皇の姿勢
 発言に対する陛下の考えは、皇太子時代の1964年の記者会見の言葉に表れている。「言ったことは必ず実行する。実行しないことを言うのは嫌いです」。ご自分の発言に対する厳しい姿勢は今も変わらないだけに、皇太子さまのことを気にされているという。>
 ◆書かせたのは宮内庁官僚
 愛子さま参内問題は、「祖父母が会いたいのに、孫を連れて来てくれない」という単純な問題ではない。皇太子の「言葉の軽さ」の問題だというのである。しかも、この記事を書かせているのが宮内庁官僚だということも、あまりにみえみえだと言っていい。

 「人格否定発言」の「真意がよく分からない」「その後の説明も不十分」という思いは、「両陛下周辺にある」と書いている。「両陛下は皇太子の説明に納得されず、皇太子の発言は軽いのではないかと心配されている」と言っているのも、「別の関係者」の言葉だ。これらはすべて、宮内庁官僚たちの発言だとみていい。

 ◆傍若無人な官僚たちの発言
 その延長線上に、「天皇制が雅子さま制に変わる」「小和田家が雅子妃を引き取れ」といった官僚たちの傍若無人な発言が出て来たのである。

 宮内庁官僚たちは、天皇は自らの側に立っているという絶対の自信を持っている。その自信が、傍若無人の域にまで、官僚たちを突っ走らせている。

 [このコラムは上、中、下の3部構成とします。(中)は「人格否定発言(04年)に見る皇太子対官僚の構図」、(下)は、「抹殺された大正天皇の先例」とします。]

--------------------------------------------------

② 宮中の支配者=官僚たちの「黒い野望」(中)―「人格否定」発言に見る皇太子対官僚の構図
田中良太2008/07/24

04年2月、皇太子は誕生日を前に慣例の記者会見で、「人格否定」発言を行って、大きな波紋を引き起こした。今回は、当時のメディアを手掛かりに問題の背景、関係者の発言を整理した。そこから浮かび上がってくるのは、宮内庁のキャリア官僚が墨守する〝事なかれ主義的体質〟であり、それに対する皇太子の強烈な批判と反発である。


 ◆04年の皇太子誕生日会見
 3部作の2編目であるこの回では、4年前の04年、皇太子の「人格否定」発言などにからむ事実関係のおさらいをしてみる。皇太子の誕生日は2月23日。慣例となっている記者会見は、その年2月19日に行われたことが、宮内庁ホームページを見れば分かる。


 ◆雅子妃の静養について質問
 記者クラブからの質問の第2項目は雅子妃の「静養」だった。雅子妃が静養中であり、皇族が長期間公務を休むのは異例だとしたうえで、

 <殿下は一連の経過をどう受け止められ、原因はどこにあるとお考えですか。夫としてどのように妃殿下を支えていらっしゃるのか、解決策としてご夫妻でお考えのことや望まれていることをお聞かせください。両陛下とはどのようなお話をされましたでしょうか。> と問いただしたのである。

 ◆雅子妃の努力と頑張り
 皇太子はその回答を、
 <雅子には、結婚により、それまでとは全く異なる環境に入りました。新しい生活の中で、外からは分らないのですが、東宮御所での生活の成り立ちに伴う様々な苦労があったと思います。そのような環境に自分を適応させようと努力していましたし、また、公務にも努めてきました。> と切り出した。さらに

 <子供が生まれてからは、公務を少し軽減しましたが、疲れが蓄積していても、外では見せずに頑張っており私も心配でした。世継ぎ問題のプレッシャーも、また掛かってきたことも大きかったと思います。帯状疱疹を未然に防ぐことができなかったことはとても残念ですが,帯状疱疹という病気になってそれまで溜まっていた疲れが出ているように思います。今はともかく、全てを忘れてゆっくり休んで欲しい気持ちです。そうですけれどもなかなか思うようにいかないのが現状であります。(中略)

 ◆「公務のあり方見直し」発言
 雅子が公務に復帰するのにはまだしばらく時間が掛かるかも知れませんが、私としては側にいて、励まして、相談に乗って、体調が良くなるようにしてあげられればと思っています。また、皇太子妃というこの立場を健康で果たすことが必要なわけですから、そういった意味からも今後の公務の内容や在り方も検討する必要があると思います。世継ぎ問題については,その重要性を十分認識していますので、周囲からプレッシャーが掛かることなく、静かに過ごせることを望んでおります。さらにもう少し自由に外に出たり、いろいろなことができるようになると良いと思います。>

 と結んだ。この末尾の部分が、いわゆる「公務見直し」発言である。

 ◆欧州3国歴訪前の会見
 それが、さらに「人格否定の動き」があったという発言に発展したのは、5月10日の記者会見だった(※注参照)。皇太子は同月12日から24日までデンマーク、ポルトガル、スペイン3国を訪問することに決まっており、それに先だっての会見だったのである。このときも第2問が雅子妃だった。

 記者会見の全内容は
・皇太子殿下の外国ご訪問前の記者会見の内容
 
 <妃殿下のご訪問については、ぎりぎりまで検討されましたが、最終的には見送られました。殿下お一方でご訪問されることに至った経緯、結果についての殿下、妃殿下のお気持ちをお聞かせください。妃殿下の現在のご様子、ご回復の見通しについても改めて伺えればと思います。>

 ◆外国訪問が許されず苦悩
 回答の中で皇太子は、
 <殊に雅子には,外交官としての仕事を断念して皇室に入り,国際親善を皇族として、大変な、重要な役目と思いながらも、外国訪問をなかなか許されなかったことに大変苦悩しておりました。>

 ◆キャリアや人格を否定する動き
 <誕生日の会見の折にもお話しましたが、雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です。> などと発言した。これが「人格否定発言」であった

 ◆具体的な内容は答えず
 これに対しては、異例の「関連質問」があった。
 <先ほどお答えになった時にですね、妃殿下のキャリアや人格を否定するような動きがあるとおっしゃいましたが、差し支えない範囲でどのようなことを念頭に置かれたお話なのか質問させていただきたいのですが。>というものだったが、皇太子は

 <そうですね、細かいことはちょっと控えたいと思うんですけれど、外国訪問もできなかったということなども含めてですね、そのことで雅子もそうですけれど、私もとても悩んだということ、そのことを一言お伝えしようと思います。> という答えにとどめた。
「人格否定」発言はメディアを騒がせ、反響も大きかった。

 ◆東宮大夫は「対応に努力」
 皇太子一家のお世話係のトップだった林田英樹・東宮大夫(とうぐうだいぶ)は12日、「大変なご心痛であったと重く受け止めている。対応できるよう努力したい」と語った。「もっと早めにお休みいただくなど、適切な対応ができていたらと申し訳なく思う。一日も早いご回復につながるよう検討していきたい」と述べたうえで、外国訪問や雅子さまの公務復帰について皇太子さまの意向に沿って進める考えを示した。

 ◆宮内庁長官「皇太子の真意を確かめる」
 宮内庁の湯浅利夫長官は13日の定例記者会見で、「ご発言は重く真摯(しんし)に受け止めている」と述べたが、自ら皇太子さまに真意を確かめたうえで対応するとの考えを示した。

 ◆天皇・皇后「具体的な内容が明白でない」
 当時の新聞記事によると、湯浅氏は会見でまず、「天皇・皇后両陛下が心配されていることが渡辺允侍従長を通じて伝えられた」と述べた。天皇・皇后の「心配」とは何か?。<皇太子の言った「人格否定の動き」が何を示すのか、具体的な内容が明白でない。皇室内部にトラブルがあることを外部に明らかにするような発言は、皇族の一員として慎むべきである>という意味であることが、その後明らかになっていく。

 ◆「理解できない」と長官
 そのうえで湯浅氏は、会見翌日の11日に皇太子に対して面会を申し入れたが、訪欧直前で実現しなかったことを明らかにし、さらに「お約束はいただいていないが、ご帰国を待ち、改めて伺いたい」と述べた。皇太子の人格否定発言そのものについて湯浅氏は「真意を理解できないのでコメントを控えたいが、私どもに向けられているのであれば、きちんと考えなければならない」と述べた。また自ら真意を聞くことについては、「人聞きでは実態がわからなくなる」と説明した。

 ◆天皇の支持によって「事情聴取」を正当化
 林田東宮大夫が、「皇太子の意思に従って改善」と言ったのに対して、湯浅宮内庁長官は「天皇の意思」を持ち出して、「皇太子を問い詰める」という行動に出たのである。皇族のナンバー2は皇后ではなく、皇太子であろう。単なる役人にすぎない宮内庁長官が皇太子を問い詰めるという暴挙に出ることができたのは、天皇の支持があったという形をつくったからだろう。

 ◆皇太子発言にメディアの後押し
 じつは「人格否定」発言に至る皇太子の言動には、メディア論調の後押しがあったと見ることができる。皇太子誕生日会見の3週間ほど前、1月27日付毎日新聞朝刊「記者の目」欄に「雅子さま静養のあり方を考えるべき」という記事が掲載された。 この欄は、担当記者が主観をまじえて意見を表明することになっており「真鍋光之」という署名が入っているが、おそらく宮内庁担当記者なのだろう。結論部分だけ引用しよう。

 ◆「お世継ぎ」のプレッシャー指摘した「記者の目」
 <「お疲れ」の原因には第2子誕生への周囲の期待も関係しているのではないか。皇室典範では、皇位継承者は男子に限られ、宮内庁関係者は「早く男子を」と望んでいる。昨年12月に湯浅利夫長官が、秋篠宮ご夫妻について「皇族の繁栄を考えると、3人目を強く希望したい」と話したのはその流れだと思うが、こうした言動が雅子さまにプレッシャーになってはいないか。林田東宮大夫は会見で、「相当大きな制約の中で生活されている」とも話した。確かに、東宮御所から気の向くままに出入りすることは難しいが、東宮御所に愛子さまと「閉じこもるようにして」(宮内庁関係者)いることが本当にいいのか。

 ◆海外も含め静養を提案
 そこで提案したい。気分転換を図る意味で、那須御用邸付属邸(栃木県)や葉山御用邸(神奈川県)で長期間静養するのはどうだろう。また、一時的に両親のいるオランダ・ハーグでの静養も考えていいのかもしれない。反対意見が多いだろうが、雅子さまは一昨年の会見で、子供のころから外国に行くことが生活の一部になっていたのに、結婚後にほとんどなくなったことに対し「その状況に適応することに大きな努力がいった」と明かしているからだ。

 ◆「任期付き侍従」の問題も指摘
 ご夫妻のお世話をする東宮侍従らの在任期間の検討も必要だろう。現在、東宮侍従長が1人、東宮侍従は4人いる。外務省や文部科学省などからの出向の形が多く、数年で元の省庁に戻るケースもあるので、ご夫妻が物事をじっくり相談することは難しいかもしれない。昭和天皇や天皇陛下には数十年にわたって側に仕えた侍従が何人もいた。来年度から主に愛子さまの養育を担当する東宮侍従が一人増えるが、皇太子ご一家の将来を見据えた東宮侍従のあり方を考えるべきだ。

 雅子さまが皇室に入って10年以上たった。雅子さまの姿や笑顔に魅了される人は多
い。その笑顔が一日も早く戻ることを願っている。>

 ◆世論だけが参考という状況
 皇太子が「公務の見直し」発言に踏み込んだのは、この記者の目に代表される「世論」に背中を押されたのだと考えることができる。「記者の目」の記述にもあるとおり、侍従も含めて、「真の相談相手」はいない。だからこそ、世論だけを参考に行動を選ぶことになりがちとなる。

 ◆実現した静養
 この年3月26日付「読売」朝刊は< 雅子さま、長野でご静養/宮内庁発表>という記事を掲載した。

 <宮内庁は25日、皇太子妃雅子さまが静養のため、皇太子さま、長女の愛子さまと共に長野県内にある親族の別荘に入られたと発表した。来月上旬まで、母親の小和田優美子さん(66)らと水入らずで生活される。皇太子さまも数日間、一緒に過ごされる。滞在先は公表されていない。> という簡単な記事である。

 ◆東宮大夫が異例の「お願い」
 その後に、林田東宮大夫が記者会見して、報道機関や地元住民らに、取材や写真撮影、沿道での歓迎などの自粛を要請する異例の談話を発表したことを伝えている。

 <東宮大夫が発表した談話(全文)は次の通り。

 [皇太子妃殿下の御静養についてのお願い]
 皇太子妃殿下におかれては、昨年暮れに帯状疱疹を患われて以来、東宮御所において御静養されてきましたが、医師の勧めもあり、転地先でしばらく御静養されます。今回の転地による御静養は、御体調を回復していただくための、大切な機会であると考えております。このため、御滞在地において静かな環境が保たれますよう、報道関係の方々には、現地での取材や写真撮影を差し控えていただくことをお願い致します。

 また、地元の方々を始め報道関係以外の皆様にも、今回は、行啓沿道や御滞在先における奉迎を御遠慮いただき、また、御静養にふさわしい静かな環境となりますように、特段の御理解と御協力をお願い致します。> とされている。

 ◆さらなる前進目指した「人格否定」発言
 この異例の措置も、毎日・真鍋記者の「記者の目」勧告を受け入れたものと考えることもできる。この「前進」によって、皇太子本人も「さらなる前進のチャンス」と考えた。そこで5月10日記者会見の「人格否定」発言に踏み込んだ、と言えるのではないか。

 ◆読売の解説記事
 5月13日付「読売」朝刊は、第2社会面に以下の解説記事を掲載している。
 <見出し=皇太子さま異例の発言 意思疎通の努力、事務方に不足 「重く受け止めます」。

 林田英樹・東宮大夫は12日の会見で、皇太子さまの異例の発言についてこう語った。皇太子さまの発言内容は事前に知らされていなかったが、発言後も真意を確かめようとしておらず、事務方の意思疎通に対する努力不足は否めない。

 ◆体調悪化の原因=外国訪問不許可▼疲労▼お世継ぎプレッシャーの3つ
 皇太子さまの発言を整理すると、雅子さまの体調を崩させた要因は主に3つある。
 第1は、外交官から皇室入りした雅子さまに外国訪問が許されなかったこと。
 第2は、皇室の特別な環境に適応しようとして疲れ切ってしまったこと。
 第3は、「世継ぎ問題」のプレッシャー。「キャリアや人格の否定」の意味は不明だが、外国訪問が世継ぎ問題を優先して絞られたことなどが背景にあるのは想像に難くない。

 ◆及び腰だった宮内庁
 皇太子さまの発言は突然飛び出した訳ではない。今年2月の誕生日にあたっての会見でも「公務の内容やあり方も検討する必要がある」と注文をつけられていた。宮内庁側の対応は及び腰で、宮内庁長官ら主要幹部は「プライバシー」を理由に雅子さまの詳しい体調さえ、つかもうとしなかった。

 ◆「人格否定」発言支持の立場
 <皇太子ご夫妻の外国訪問は閣議で決められ、ご夫妻の意向に沿えないこともある。しかし、雅子さまの体調回復という目的は1つ。東宮職は異例の発言に踏み切らざるを得なかった皇太子さまの胸中を真摯(しんし)にかみしめなければならない。(小松夏樹)>
 これは明らかに「人格否定」発言を支持する立場で書かれている。
 
◆世論への巻き返しも狙った湯浅発言
 13日付朝刊というのは、きわどい時期だった。記事を読めば分かるとおり、林田東宮侍従の記者会見は12日に行われていた。しかし「天皇の意思」を金科玉条にした湯浅長官の記者会見は、この解説記事が掲載された13日に行われたのである。湯浅発言は、「人格否定」発言に同情的な世論への巻き返しを狙ったものともみられる。

 ◆「激震」伝える記事
 読売は同月15日付第3社会面で<皇太子さま異例発言 激震、宮内庁 「何してる」メール殺到>という記事を掲載した。

 <皇太子さまの異例の発言に、波紋が広がっている。「雅子のキャリアや人格を否定する動きがあった」という発言の真意は不明だが、宮内庁には「何をしている」といった批判や、ご夫妻に対する励ましの電子メールが殺到している。雅子さまが体調を崩して半年。宮内庁幹部は「重く受け止める」と記者会見で語ったが、苦悩の要因は複雑に絡み合い、同庁は難しい対応を迫られている。>

 という前文の下に、■波紋■真意■背景■ご体調、など各項目についてまとめた記事である。

 ◆宮内庁批判のメール700件
 ■波紋の項は

 <「ご夫妻があまりにかわいそう」「宮内庁幹部は責任を取るべきだ」。宮内庁に寄せられた電子メールは、記者会見があった10日から14日夜までに700件を超し、多くがご夫妻に共鳴し、宮内庁を批判する内容という。

 ある幹部は「激震」とつぶやく。皇太子さまの発言に「それほど思い詰めていらっしゃったとは」と、驚きを隠せないのが実情だ。> で始まる。

 ◆天皇が2元長官呼ぶ
 記事全体を見ると、13日夜には藤森昭一、鎌倉節の両元長官らが両陛下から御所に呼ばれた▼林田東宮大夫は14日の定例記者会見で、皇太子が林田大夫に対して「人格否定の動きがあったのは湯浅長官時代のことではない」と話したことを明らかにした、などの事実が明らかにされている。

 ◆羽毛田次長が「両陛下の心配」発言
 宮内庁は17日の羽毛田次長定例会見で「両陛下はご発言に驚かれている。(両陛下のご心配とは)社会的影響も大きいので、改めて皇太子さまから具体的な説明がないと、国民も心配しているだろうということ」などと補足説明した。両陛下のご心配については「真意が分かりにくく衝撃的なご発言だったので、何らかの形で皇太子さまが説明された方が良いとお考えになったと思う」などと説明した、と報じられた。

 ◆皇太子は補足説明文書を発表
 結局、皇太子は6月8日、「人格否定」発言について補足説明する文書を発表した(※注参照)。文書は800字余りで、「個々の動きを批判するつもりはなく、現状についてわかっていただきたいと思ってしたものです。天皇皇后両陛下はじめ、ご心配をおかけし心が痛みます」という釈明がポイント。

 全文は
・皇太子殿下のご説明

 さらに、「皆さんに何よりお伝えしたいこと」として、「雅子本人も元気な自分を取り戻し、公務へ復帰することを心から希望しているということ」を挙げたうえ、「公務のあり方も含め、(方策を)宮内庁とよく話し合っていきたい」とされた。

 ◆皇太子支持の社説・解説
 この補足説明を受けて「読売」は、

 <皇太子さま、文書で心境 宮内庁は一体となって努力を>という見出しの解説を掲載した。また社説のタイトルは<皇太子ご夫妻 お二人の意向を大切にしたい> だった(ともに6月9日付朝刊)。解説のポイントは<皇室の活動は伝統の上に立っており、公務の極端な転換は難しい。しかし、皇太子さまが望まれる「静かな形でのプライベートな外出」を増やし、定型的な公務を見直すことは可能だ。雅子さまの経験を生かし、能力が発揮される新たな公務も検討されるべきだ。> という文章。

 社説のポイントは
 <お二人の外国への親善訪問は、これまでにわずか三回しかない。相手国の事情などもあるだろうが、外交官だった雅子さまのキャリアを生かし、もっと親善外交の機会を設けてもよかった。

 ◆「問題があれば改善を」
 長期間の静養が必要なほど、ご体調が悪くなる前に、皇太子さまが「キャリアや人格を否定する動き」と発言されるまでに思い詰められる前に、宮内庁は、お二人の気持ちを察して対応することはできなかったのだろうか。

 転地療養の検討も含め、今は雅子さまが早くお元気になられるように最善を尽くすことが大切だ。宮内庁の支援体制や、お二人の公務の在り方も、問題があれば改善してもらいたい。

 ◆旧来の方式固執なら皇太子夫妻の考えとズレ
 「インターネットの普及一つとってみましても、どれほど世の中が変わったかということに驚かされます」。雅子さまが1年前に語った内容だ。皇太子さまも常々、「若い世代の皇室にふさわしい活動ができれば」と語られてきた。

 皇室の伝統と歴史は大切だ。「世継ぎ問題」も、皇室の将来を考えると避けて通れない。だが、宮内庁が旧来の方式に固執するようでは、お二人の考えとズレが生じる面もあるのではないか。>

 だった。皇太子の一連の発言が、世論の支持を受けていたことは確実だったのである。 

◆秋篠宮が「異議アリ」
 しかし11月30日、39歳の誕生日を迎えた秋篠宮が、恒例の記者会見で皇太子の「人格否定」発言に異議を挟んだ。秋篠宮の発言は「発言前に、せめて(天皇)陛下と内容について話をし、その上での話であるべきではないかと思っております。私としては残念に思います」「私も少なからず驚いたわけですけれど、(天皇)陛下も非常に驚かれたと聞いております」などと語った。

 ◆「公務は受け身のもの」
 皇太子の「雅子には生活に伴う様々な苦労があった」との発言については、「どういう意味なのか理解できないところがあり、本人に尋ねた」ことを明らかにした。皇太子からは、生活空間にいろいろな人がいて配慮しなければならなかったり、容易に外出することが難しかったりということだと説明された事実を明かにした。

 皇太子が公務のあり方について再考を求めていることについては、「私は自分のための公務は作らない。したいことは色々あるけれども、イコール公務かどうかは別」と言い、公務は「受け身のものだ」との考えを強調した。

 ◆天皇が04年の締めくくり
 こうした動きがあった04年を、最後に締めくくったのは天皇という形になった。12月23日、71歳の誕生日を迎えるにあたっての記者会見は、高松宮妃喜久子さまの逝去で中止となったが、宮内記者会の質問に文書で回答を寄せ、皇太子の「人格否定」発言についての考えを公表された(※注参照)。皇太子の発言については、

 <初めて聞く内容で大変驚き、「動き」という重い言葉を伴った発言であったため、国民への説明を求めた> と経過を説明したうえで、皇太子に対して

 ◆「事実に基づかない言論に心が沈む日も」
 <「時代に即した公務」がどのようなものか示し、少なくともその方向性を指示して、周囲の協力を得ていくことが大切>と、注文を付けた形になった。さらに<発言を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました> と述べられた。

 ◆皇太子発言の軽率さ指摘?
 この矛先は「事実に基づかない言論」を展開した週刊誌などに向けられているように見えるが、実はそれを招くきっかけになった皇太子発言の軽率さを指摘したものと見ることができる。

 全文は
・宮内記者会の質問に対する文書ご回答とこの1年のご動静

 ◆天皇の責任感強調
 この文書についても読売は
 <天皇陛下、公務について踏み込んだ回答 国民の心配に責任感> という見出しの解説を掲載した。

 <天皇陛下が皇太子ご夫妻の公務について踏み込んだ回答をされた背景には、国民の心配に応えようとする陛下の責任感と、皇太子さまの発言で動揺が続く宮内庁への配慮がある。側近によれば、両陛下の驚きは、皇太子さまの発言が記者会見という場で唐突になされ、そこに「人格を否定する動き」という強い言葉が含まれていたこと、さらには、公務についての苦悩が表れていたことなどに起因している。

 ◆「明確な説明はない」と認識
 陛下は皇太子さまの異例の発言後、国民への具体的な説明を促され、皇太子さまも文書で回答された。しかし、「人格否定」についての明確な説明はなく、公務の将来像も明らかにされなかった。宮内庁はご夫妻の意向を尊重することを誓い、「公務改革」を検討しているが、半年たっても具体案は打ち出せない。同庁の能力にも問題があるが、「ご協力したいが抽象的な希望の段階では難しい」(湯浅利夫長官)という面も否めない。

 ◆「国民への真摯な姿勢」強調
 陛下はこれまで、何より国民と公務を大事にされてきた。あえて公になる文書で自身の考えを示したのは、自分たちが歩いてきた公務の道のりを国民の前に示し、将来を担うご夫妻にも自分たちが描く未来像を示してほしいと考えられたからだろう。回答を「異例」と受け止めるのではなく、国民に向けて真摯(しんし)に説明されようとしたものと受け止めたい。>

 以上が全文だが、天皇の生真面目な責任意識を強調するにとどまっていると指摘せざるをえない。「人格否定」発言がつきつけた現実をどう解決するかという重い問題からは逃げた文章でしかない。

 ◆湯浅長官の退任会見が締めくくり
 結局、「人格否定」発言に一応の決着をつけたのは、翌05年4月1日に行われた湯浅利夫長官の退任会見だった。湯浅氏は「退任の機会に」と自ら皇太子の「人格否定」発言に触れ、自らを含む過去3代の長官が「お世継ぎ問題」を重視する中で、皇太子ご夫妻の意向に沿わない形で海外訪問を抑制したことを明らかにした。

 ◆「3代の長官が人格否定実行」
 湯浅氏は「皇室のお世継ぎの問題は誠に重いものでした。外国訪問と、この問題を考える中で、お気持ちに沿い切れぬことがあったのは心苦しい」と発言。その背景について「両殿下の公式外国訪問は格が高く、早い決定が必要だ。先任者も、妃殿下の懐妊への期待の中で、おのずと慎重にならざるを得なかった」と説明し、決定から訪問までの準備期間として「せめて半年くらいは猶予期間をいただきたい」と述べ、「お世継ぎ問題」がある中での外国訪問の難しさを強調した。

 ◆「お世継ぎ重視」を正当化する居直り
 これは、皇太子によって「人格否定」とされた行為を、3代の長官は確かにやったと自白したことになる。そのうえで「お世継ぎ」重視は悪いことだったのか? と国民に問いかけた発言とみていい。要するに「人格否定の3長官」の最後である湯浅氏が、退任のさいに居直ったのである。

 ◆羽毛田長官が精神受け継ぐ
 その居直りの精神は現長官の羽毛田氏に受け継がれている。だからこのコラム(上)で指摘したように、「愛子さま問題は単なる例の一つ。問題は皇太子の言葉の軽さだ」などという言葉が、宮内庁の中枢から出てくるといった事態になっているのであろう。

 ◆藤森・鎌倉・湯浅3代の17年間
 湯浅氏を含む3代の長官というのは藤森昭一(1988年6月~1996年1月在任)、鎌倉節(96年1月~2001年4月在任)、それに湯浅氏だ。合計17年にわたって、官僚OBの宮内庁支配が続いたのである。いやそれ以後も、湯浅長官時代の次長だった羽毛田氏が長官となって後を継いでいる。現在まで20年に至る官僚支配の長さを、私たちは十分意識しなければならない。

 ◆巨大な存在・藤森氏
「人格否定の3代」の初代、藤森氏は1950年、東大法卒で厚生省入省。途中、環境庁に移り81年環境事務次官、82年には内閣官房副長官(事務)に発令された。事務次官会議の座長であり、全官僚のトップというべき地位である。87年には退任して内閣参与となったが、88年4月宮内庁次長に発令されて現役に戻り、同6月に長官に昇進した。96年1月退任後も、同3月宮内庁参与、同4月には日本赤十字社社長に就任した。05年2月宮内庁参与を、同3月日赤社長を退任したが、それまで宮内庁に対して大きな影響力を保持していたとみられる。

 ◆次長のまま退任した宮尾氏
 この間、各省庁のトップ格のキャリア官僚が宮内庁次長となり、長官に昇格する人事が順調に続いたようにみられる。しかし鎌倉節氏が94年4月次長となったとき、前任次長の宮尾盤氏は、次長のまま退陣した。

 ◆13年間の宮内庁在任より「次官級」経験が優先
 宮尾氏は1953年、東大法卒、自治庁入り。自治省公務員部長などを務めたあと、81年宮内庁に移り、書陵部長、管理部長などを経て、藤森氏が長官となった88年6月、宮内庁次長に就任した。鎌倉次長と交代するまで13年間宮内庁に在任したことになる。この宮尾氏を長官に昇進させず、鎌倉氏に差し替えたときの長官は藤森氏である。藤森氏はこの人事を断行することによって、宮内庁長官に就任する条件は、「宮内庁勤務が長く、宮内庁に詳しい」ことではなく、各省庁のトップクラスであったことを重視するという「基準」を確立したのであろう。

 ◆「無難に過ごす」だけの次官OB
 各省庁の次官級となって「卒業」した官僚は、宮内庁長官として現役に復活しても、自分の責任で新しい仕事にとり組むことなどしない。長くて4、5年の自分の任期を無難に過ごそうとするだけである。前任長官の下で次長をつとめた後、長官に昇任するのだから、前任長官の路線踏襲は当然のこととなる。そんな中で、皇太子と雅子妃が求めている「新しい皇室のあり方」など押さえつけられるのは必然の流れだとみていい。
 
 ◆日刊ゲンダイでの河原氏発言
 「人格否定」発言の後、皇太子の補足説明文書が発表された段階で、6月10日付の「日刊ゲンダイ」は<皇太子「人格否定」発言、文書で語らなかった真意>という記事を掲載した。その中で皇室ジャーナリストの河原敏明氏は以下のような見方を提示している。

 ◆人格否定発言の対象は宮内庁
 <皇太子の発言の対象は、ズバリ宮内庁です。皇族は、金の鳥かごに閉じ込められた鳥のようなもので、一挙手一投足を監視され、外と電話する自由もなかった。10年前に雅子妃というアメリカナイズされた超近代的な女性を迎え、新しい皇室を目指したのに、宮内庁はそれに順応しようとしなかった。雅子妃のキャリアや人格を皇族としての立ち居振る舞いに欠けると否定し、雅子妃が望んでいた皇室外交も許さない。

 ◆天皇以外の皇族をバカにする体質
 昔から宮内庁職員は、天皇以外の皇族を甘く見て、バカにするような態度をとってきた。その不満が爆発したのが先の発言だと思います。殿下のはっきりモノを言う姿勢は海外の評価も高い。今回も真意を語るべきだったと思います。>

 ◆天皇の文書、起草するのは誰?
 この見解こそ、「騒ぎ」の本質をついたものであろう。天皇皇后両陛下の意思と、皇太子夫妻の意思の間に齟齬があるような形をとっているが、そもそも天皇が発表している形となっている文書が、天皇本人の意思であるかどうかは疑わしい。記者会見で天皇自ら発言する場合でも、その草稿について宮内省官僚の同意は得ているとみられる。草稿そのものも、天皇自身が書くということはなく、宮内庁の役人の誰かが起草するはずだ。つまり天皇の意思と、宮内庁官僚の意思は入り混じって渾然一体となっている。

 ◆弱い皇太子の立場
 天皇・宮内庁の渾然一体パワーに対して皇太子夫妻が立ち向かったところで、しょせん勝負にはならない。
----------------------------------------
③宮中の支配者=官僚たちの「黒い野望」(下)―抹殺された大正天皇の先例
田中良太2008/07/25
皇太子の「人格否定」発言は、宮内庁の体質への強烈な批判だった。歴史を調べると、「不都合」であれば天皇をもつぶしてしまった旧宮内省の存在が浮かぶ。原武史著『大正天皇』は「遠眼鏡事件」を手掛かりに、威厳に満ちた明治天皇とは対極的な生き方を採ろうとした大正天皇が、牧野伸顕ら宮内省官僚によって「御脳の病気」を強調され、国民と離隔させられていく様子が詳述されている。現皇太子は曾祖父の教訓に学び、宮内庁官僚に勝利する道を見出してほしい。

◆皇太子が天皇になったときは……
 宮内庁を支配する官僚たちは、天皇以外の皇族をバカにしている、というのが、本シリーズ(中)の末尾で引用した皇室ジャーナリスト、河原敏明氏の見解だった。皇太子は将来、天皇になる。その時点では、さすがの宮内庁官僚も現在の皇太子に従わざるを得なくなる……。これが常識的な見方であろう。

 ◆「不都合な天皇」だった大正天皇
 しかし、そうした見方は甘い。官僚たちは、自分たちにとって不都合な天皇をつぶしてしまう。その恐ろしい先例を描いた本が、原武史氏著『大正天皇』(2000年11月、朝日選書)である。

 ◆「悲劇の天皇」の遠眼鏡事件
 この本の序章は「悲劇の天皇」と題され、<1「遠眼鏡事件」をめぐって>から始まる。遠眼鏡事件とは……。

 <一定年齢以上の人であれば、大正天皇と聞いて必ず思い出す逸話があるはずである。帝国議会の開院式で、壇上で詔勅を読み上げた天皇が、もっていた詔書をくるくると巻いて、遠眼鏡のようにして議員席を見回したことがあったが、それは天皇がもともと病気で、精神状態に問題があったからだ――というのが逸話の中身である。この「遠眼鏡事件」は、近代の天皇を語るにしてはあまりに生々しく、「不敬」の匂いに満ちている。明治天皇と昭和天皇という二人の天皇が、ときに「大帝」「名君」と呼ばれ、いまなお畏敬の対象にすら、されているのと比べれば、彼我の途方もない落差に改めて驚かされる。> というのが、この本が説明するところである。

 ◆活字文献は「根拠なし」
 私自身も、もはや「一定年齢以上の人」である。遠眼鏡事件は知っている。小学校高学年時代に誰か先輩から聞き、その後何人もの人に「知ってるか」、と念を押されたと記憶している。教えてくれようとした人の中には教師も混じっていた。

 この本は、遠眼鏡事件について戦後に書かれた活字文献2件を発掘。事件が起きた年代が1912(大正元)年と20(同12)年と大きく食い違い、それぞれ起こり得ない時期であると記述している。一方で、丸山眞男氏のエッセー「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」で、小学校時代の思い出として、「真偽定かでないエピソード」として遠眼鏡事件が登場することに注目している。

 ◆真偽定かでないエピソード
 丸山氏の記述は、以下のようなものである。

 <大正天皇が脳をわずらっていることはそれ(昭和天皇の摂政就任=1921年)以前に民間に漠然と伝わっていた。それもはなはだ週刊誌的噂話を伴っていて、天皇が詔書を読むときに丸めてのぞきめがねにして見た、というような真偽定かでないエピソードは小学生の間でも話題になっていたのである。およそ神聖不可侵とされている対象が、まさにそのことゆえに卑俗なトピックの形をとってひそひそ話として伝えられる、ということは、ある意味では人間の本性に深く根ざしており、必ずしも天皇制の場合だけではない。>

 ◆俗説流布の理由
 この俗説がどうして流布していったのか? 牧野伸顕(1861~1949)が宮相(宮内大臣)に就任して以後の、大正天皇ご病状発表によるというのが、この本が描くところである。

 大正天皇のご病状が進み、宮内省が「御脳の方に何かご病気あるに非ずや」と判断せざるを得なくなったのは1919(大正8)年2月。翌20年3月には宮内省御用掛の三浦謹之助医師の診断書が出された。「御幼少時の脳膜炎のため御故障これありたる御脳に影響し云々」と、天皇の病気が脳に由来するものであることが明記されていた。

 ◆詳しい病状抜きの発表
 三浦医師の診断書をうけて、当時の政府(原敬内閣)は20年3月、最初の天皇ご病状発表を行った。病状発表は同年7月、21年4月と繰り返されたが、これらの発表をリードしたのは宮内省ではなく、原敬首相(1856~1921)だった。発表文の中では、具体的な病名・病状などは明らかにされなかった。人心に動揺を及ぼすことを避けようとした原首相の周到な配慮による。

 ◆一転して「脳の病気」発表 しかし21年2月、いわゆる「宮中某重大事件」で中村雄次郎宮相が辞任を余儀なくされ、後任は牧野となった。牧野は維新の元勲・大久保利通の二男。原と宮相の力関係は逆転し、以後病状発表は牧野がリードすることになる。

 21年10月の第4回病状発表では、
 <陛下はご幼少の時、脳膜炎様の疾患に罹らせられ、かつ御成長の時期より御成年後に於ても屡々御大患を御経過遊ばされし云々> と、はじめて「脳の病気」が明らかにされた。読みようによっては、大正天皇はずっと脳の病気に罹りっぱなしだったとも思えるような発表となったのである。

 ◆原敬死後のすさまじい発表
 この年11月4日に原敬は暗殺され、同月25日、裕仁皇太子(昭和天皇)が摂政になった。その日、第5回目の病状発表が行われた。その内容は、

 <天皇陛下は御降誕後間もなく、脳膜炎様の御大患に罹らせられ、其の後常に御病患多く、感冒は御持病とも言ふべきものにて屡々之に罹らせられ、その他腸加答児(カタル)、気管支加答児、百日咳、腸チフス、胸膜炎等諸種の御悩あらせられたる(中略)。

 大正三、四年の頃より、御起居以前の如くならず、御姿勢は端正を欠き、御歩行は安定ならず、御言語には渋滞を来たす様ならせられたり。此等の症状は初めは軽微なりしも、漸次御増進の傾向あるを以て、大正八年以後は万機御親裁あらせらるる他、帝国議会の開院式等にも臨御あらせられず。御避暑、御避寒の期間は之を延長し、務めて御静養あらせたまふも、御軽快に向はせられず、御脳力は日を逐ひて衰退あらせらるるの御容体を拝するに至れり。

 而(しこう)して御姿勢其他外形の御症状も末梢器官の故障より来るものに非ず、総て御脳力の衰退に原因し、御脳力の衰退は幼少期の時お悩み遊ばされたる御脳病に原因するものと拝察することは、拝診医の意見一致する所なり。> というのだから、すさまじい。

 ◆「脳の病気に支配された」大正天皇の生涯
 大正天皇の生涯は「御脳病」に支配されたものとなってしまっている。これらは、牧野宮相になってからの発表文が遠眼鏡事件という風説を支えたからだ、というのが『大正天皇』の主張である。

 大正天皇の生涯が脳の病に支配されていたというのも、牧野ら官僚グループがつくったフィクションであると、著者の原氏は主張する。

 ◆「気さくな人間味あふれる天皇」
 <原が書き記した大正天皇の姿は、「遠眼鏡事件」のイメージとは全く異なるものであった。少なくとも、皇太子時代を含め、19年2月までの日記から浮かび上がるのは、明治天皇なら想像すらできないような、椅子にかけながらくつろいで対談ができる、気さくな人間味あふれる天皇(皇太子)であり、時にしっかりした政治的意思を表明する天皇である。大正天皇がしばしば原に漏らした率直な意見の大部分は、明治天皇が一代で築き上げた重々しい「遺産」に対する違和感であったと要約しても、過言ではない。そこにはまさに、近代天皇制を揺るがしかねない内容が含まれていたのである。>

 ◆日記公開禁止の理由
 原は暗殺を予期して21年2月に書いた遺書で、「日記」について「余の日記は数十年後は兎に角なれども当分世間に出すべからず、余の遺物中此日記は最も大切なるものとして永く保存すべし」と書いている。この指示は忠実に守られ、公開されたのは遭難後30年近くを経た1950年だった。

 ◆天皇観の揺らぎを防ぐ
「世間に出すべからず」という指示の理由は、一般には「日記」に書かれた政界の事実があまりに生々しすぎるからと言われている。しかし原武史氏は、原敬が恐れたのは、大正天皇の「実像」が世間に知れることだったのではないかと推測する。

 明治天皇の遺産に対する違和感を持ち続けたのが大正天皇であることが国民の知るところとなると、「万世一系の統治者」としての天皇の権威は当然揺らぐ。それはすなわち大日本帝国の統治の揺らぎに結びつく、という展開になる。

 ◆大正天皇の実像を探る
 ここまで書いてきたような問題意識によって、大正天皇の実像を探ろうというのが、原武史氏の著書『大正天皇』の内容である。章立てを紹介すると、序章「悲劇の天皇」に続くのが第2章「結婚まで」、以下第3章「はつらつと全国を回る」▼第4章「天皇に代わって全国を回る」▼第5章「巡啓スタイルを確立する」▼第6章「天皇になる」、となっている。

 ◆勉強も規律も嫌う性癖
 第2章「結婚まで」の内容は明るくない。実母が権典侍(側室)柳原愛子(なるこ)であることを知らされないまま、外祖父、中山忠能の里子とされた。幼少期は病弱であり、少年期も「学習」は苦手だった。学習院は中途退学となり、個人教授もまた受け入れなかった。規律を嫌う性癖があり、教育を命じられた人々を困らせた。

 1900年5月10日、皇太子(後の大正天皇)は公爵九条通孝の四女節子(さだこ)と結婚する。余談だが、この結婚式は神道の「神前結婚」第1号だった。後に大逆事件で刑死する幸徳秋水は、このとき「万朝報」の記者で「皇太子殿下の大礼を賀し奉る」という無署名記事を書いたという。

 ◆結婚報告の旅でハプニング
 5月23日から6月2日にかけて皇太子夫妻は三重・奈良・京都3府県を旅する。伊勢神宮、神武天皇陵、さらには孝明天皇・英照皇太后の陵がある京都・泉涌寺に結婚を報告するためだった。このとき、京都帝大や第3高等学校を訪問。京都帝大付属病院では、外科病室にいた14歳の脊髄病患者と22歳の火傷患者に対して、皇太子が病状を質問するというハプニングがあった。案内役の病院長がとっさに答えたが、思わぬ出来事に患者は感涙にむせんだという。

 この巡啓の期間中、皇太子は全く病気にならなかった。このため京都滞在は当初6日間の予定だったのが、8日間に延長された。皇太子が「思うことを何でも口に出す」行動スタイルは明治天皇に嫌われ、天皇の代理人である教育係も「矯正」しようとした。京大病院でのハプニングによって、皇太子は自らの行動スタイルに自信を持つことができた。

 ◆旅する皇太子となる
 この巡啓には、東宮輔導となっていた有栖川宮威仁親王夫妻が同行した。皇太子の生き生きした姿を見て、有栖川宮は、皇太子に旅をさせて健康を取り戻そうと決意する。名目は授業で学んだ地理・歴史の実地見学とする。それによって皇族の行幸・行啓という堅苦しい旅でなく、微行とすることができた。

 ◆語りかけ、被写体となり……
 以後、皇太子時代の大正天皇は全国至るところ、旅することになる。皇太子は行く先々で知事、市町村長と気さくに話し込むだけでなく、歓迎の一般民衆にも声をかけ、気軽にカメラの被写体ともなった。皇太子の行幸、行啓は新聞でも報道され、全国各地から「お出でいただきたい」との要望が相次ぐことになった。

 日露戦争が終わった1907年以降は、皇太子の行幸・行啓を天皇の名代と位置づけ要望する動きが強まった。こうして大正天皇は皇太子時代に、北海道から鹿児島まで、沖縄を除く総ての都道府県を旅することになった。

 ◆韓国公式訪問も
 それだけではない。1907年10月には、韓国旅行までした。当時は韓国併合(10年8月)の前で、韓国は日本の保護国となっていた時期だった。第2次日韓協約(1905年)による韓国統監となっていた伊藤博文が強く皇太子訪韓を要請、実現したのだった。このときは、天皇の名代としての公式訪問という形をとった。

 ◆明治天皇と逆の行動スタイル
 いずれにせよ明治天皇は、肉声が聞かれることのない、権威そのものというべき存在であった。「ご真影」は実物ではなくキョッソーネの肖像画のコピーだった。これに対して皇太子は、気軽に肉声を発する、親しみの持てる人物であった。行幸・行啓の際の写真も下賜されるようになった。明治天皇の行動スタイルとは全く逆ともいえるスタイルをとるようになったのが、皇太子時代の大正天皇だったといえる。

 ◆「生身の身体をさらす」天皇
 1912年7月29日、明治天皇が死去。直ちに大正天皇が即位した。『大正天皇』は、以下のように代替わりを位置づけている。

 <天皇の代替わりの視点から、明治から大正へという時代の変化を一言でいえば、臨終に瀕する最後の十日間を除いて、生身の身体を持ちながら、「神」として十分に観念化、抽象化されてしまった明治天皇とは異なり、生身の身体や、それに伴うさまざまな人間性を強烈に各地の人々にアピールしてきた嘉仁皇太子が、突如として天皇になったことを意味していた。>

 ◆西園寺の苦言と老臣の涙
 7月30日の夜には、首相だった西園寺公望が「十分に苦言を申し上げ」、天皇が「十分注意すべし」と答える場面があった。31日には宮中正殿で朝見の儀が行われたが、即位の勅語を朗読する天皇に落ち着きがなく、涙を流す老臣もいたという記述があったことなども紹介されている。

 ◆束縛に満ちた天皇の生活
 天皇となってからは、皇太子時代の自由な旅を楽しむことなどできない。通常は朝6時半起床から夜11時就寝まで、書類に埋まっての生活となる。それでも陸軍大演習への参加など行幸の機会があり、大正天皇の意思は「簡略を心がけよ」だった。その意思がじっさいに生かされた例は少なく、明治時代に確立した慣例どおりに行われることも多かった。

 ◆原敬と話し込む
 それでも明治天皇の時代、陸軍大演習に行く列車は、天皇専用であったが、大正天皇の下では、首相以下閣僚と共用の列車となる。皇太子時代の旅行で、知事と車中で話し込むことが多かった天皇にとって、「専用車」という環境は耐え難かったようだ。原敬は、車中で天皇に呼ばれ、「両陛下の御前に於いて種々の物語をなしたり(先帝の御時代には此くの如き事なし)」と日記に書いているという。

 ◆新聞にも天皇の写真
 また極端な写真嫌いであった明治天皇と違って、被写体となることを好んだため、陸軍大演習の新聞報道では、天皇を撮した写真が掲載されることもあったという。つまり、それなりに合理的な「大正天皇流」があったといえる。

 ◆親子水入らずの生活
 大正天皇は、明治天皇と対照的に子宝に恵まれた。1901年4月に昭和天皇、02年6月に秩父宮、05年1月に高松宮、ずっと遅れた15年12月に三笠宮(それぞれ成人後の呼称、幼名は省略)がそれぞれ生まれた。昭和天皇と秩父宮は生後間もなく川村純義邸に里子に出されたが、04年8月川村は死亡。05年4月には2人とも東宮御所に隣接する皇孫仮御殿に移った。事実上「親子水入らずの生活」を楽しめるようになった。

 ◆昭和天皇の教育では「反面教師」
 しかし後に昭和天皇となる裕仁皇太子の教育は、大正天皇を「反面教師」として行われることになる。14年4月学習院初等科を卒業すると、新たに設けられた東宮御学問所に入学。個人教授が精神的な孤独や情操面の欠如をもたらしたという大正天皇の教訓を踏まえ、5人の学友とともに学ぶことになった。

 ◆杉浦重剛の「倫理」が最優先
 学問の内容としては倫理が最も重視され、国粋主義者として知られた杉浦重剛が担当した。杉浦は明治天皇を手本とし、表情を崩さず威厳を保つことを繰り返し教えた。この教育は成功し、思ったことは何でも口に出す大正天皇とは正反対に、寡黙で、何ごとがあっても表情に出さない昭和天皇の人格ができあがった。

 ◆原敬内閣成立直後に発病
 1918(大正7)年9月には、本格的政党内閣として原敬内閣が誕生するが、その直後から大正天皇は発病する。10月31日の天長節観兵式に欠席、11月栃木県で行われた陸軍特別大演習には臨んだものの、乗馬を怖がり、左足の動作がおかしくなっていた。12月の帝国議会開院式も欠席。原敬は翌19年2月、宮内次官から「御脳の方に何かご病気あるに非ずやと云ふ事なり」という報告を受ける。

 ◆「国家の重大問題」
 この年8月から天皇の病状は目に見えて悪化。11月に入ると原敬日記に、天皇の病気を「国家の重大問題」とする記述が出てくる。そして20年3月、宮内省御用掛、三浦医師の診断書が出された。それ以後のことは冒頭に書いたとおりである。

 ◆大隈や原が好き、山縣は嫌い
 大正天皇は、政治家についても好き嫌いがはっきりしており、大隈重信や原敬が好き、山県有朋は嫌いだったという。天皇の好悪という次元で政治が動かされるのは問題があるにしても、大正天皇の意思が生きる形で「明治という国家」が変貌していけば、あの無謀な第2次大戦は避けられたのではないかという強い印象を受けた。

 ◆昭和天皇は平和を愛した?
 とくに、昭和天皇の教育の問題を考えると、その印象は強まる。1989年1月、昭和天皇死去のさい、当時の竹下登首相によって、昭和天皇が「平和を愛された」とする「謹話」が発表された。以後、その路線に従った歴史の偽造作業が、多数の人たちによって熱意を込めて行われている。

 ◆東条英機を信頼
 現実には昭和天皇が最も信頼した政治家(?)は東条英機だった。東条は天皇のご下問に対してすべて誠実に答え、また発言をぐらつかせなかったからである。天皇のご下問に答えるため東条は、陸海軍省、参謀本部・軍令部に周到な準備をさせた。あまりに些細なことばかり調べさせられるので、軍部での評判は極めて悪かったという。その東条の影にいたのは昭和天皇である。

 ◆宣戦の詔勅に「国際法遵守」なし
 些細なことは徹底的に質問したのに、「太平洋戦争」宣戦の詔勅からは、それまで慣例化していた「国際法を厳に遵守し」の文言が欠落していた。その大きな問題を指摘させなかったのが、大正天皇を反面教師とする教育の成果ではなかろうかという気がするのである。

 ◆皇太子と共通の敵=宮中官僚
 以上、ほとんどが原武史氏の著書『大正天皇』の内容紹介にとどまっているのは、心苦しい次第である。しかし大正天皇もまた、宮内省官僚と戦った。大正天皇の場合は敗北したわけだが、現皇太子はその教訓に学び、宮内庁官僚に勝利する道を見出してほしいと思うのである。

 ◆歴史は繰り返す?
 『大正天皇』を再読してみて、宮中の官僚支配があれほどひどいものではなく、大正天皇の意思が生きていれば、あの無意味な日中15年戦争・第2次大戦はなかったかもしれないという思いを強めた。いま、皇太子夫妻の人間性を押しつぶそうとしている官僚たちの支配を許すなら、日本は再び不幸な道を歩むことになるだろう。

 ◆明治天皇・昭和天皇が「初代」
 天皇家の歴史を見ると、明治天皇と敗戦以後の昭和天皇は、ともに自らの存在をかけて戦った天皇であった。その戦いが勝利に終わらなければ、天皇制は終焉していたといえるほどの、危機的状況に直面していたのである。天皇の周辺にいた官僚たちは、天皇の戦いを支援する「友軍」だった。

 ◆2、3代目支配を目指す官僚たちの魔手
 しかし「初代」とともに戦い勝利した官僚たちは、2代目、3代目の上に立とうとする。初代がつくった慣行しか認めず、2代目・3代目が人間性を発揮しようとすると、それを妨害する。明治憲法下では「万世一系の統治者」であった天皇が、現行憲法下では単なる「象徴」とされた。その地位は大きく変わったが、「官僚支配」という日本の基本的枠組みは変わっていない。だからこそ、歴史は繰り返されるのである。

 ◆目標は皇太子の退位?
 このシリーズ(上)で指摘した、「雅子さま制は許されない」とか「小和田家で引き取れ」とか言っている官僚たちはどこを目指しているのだろうか? 最終目標は皇太子の退位以外、あり得ないのではなかろうか。(中)で触れた秋篠宮の発言を、官僚たちに逆らわない天皇になってもいいヨ、という意味に読みとるのは、深読みにすぎるだろうか?

 ◆日本の将来に影響 注視が必要
 いずれにせよ、長男だけが天皇候補という強烈な差別を前提に幼少年期を過ごした皇弟たちは、天皇になりたいという強烈な願望を持つらしい。戦後の一時期、昭和天皇退位論があった。そのとき、高松宮が天皇になるという期待感で燃えた。しかし、退位の可能性は消え、高松宮の人生は目的を失ったものとなった、という経過があったことは確かなようだ。

 皇太子vs宮内庁官僚の暗闘は、今後の展開をじっくり見つめていく必要がある。日本の将来はその推移によっても、大きく影響されるはずだ。

天照


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

詳しい内容

やまのこ様
詳しい内容ありがとうございました。
とても、解りやすく理解できました。

自国の歴史を知ることの、重要性を再確認いたしました。

重ねてお礼いたします。

No title

他人の思惑はどうあれ、浩宮にはたった一言、この言葉に尽きます

「大口は自分の義務を果たしてから叩きなされ」

失礼いたしましたm(_ _)m

アビ さま

雅子さんが「皇太子っておえらいの?」と聞かれたそうですが
今の雅子さんに聞いてみたい「雅子さんっておえらいの?」

今回の文藝春秋の人気で澱んだ空気が少しでも
動いてくれたらいいですね。
儲かる! は、大きい事だと思います。
毎月8頁の記事をコンスタントに連載するとは思いませんが
各月ならあるかも! 
夏のボーナス前にドッカーンと花火上げて欲しいものです。
贋の記事は良くありませんが、20年間隠しておいたもの
出すなら「今でしょ!」
コピペで失礼しました。

お名前なし さま

失礼なんてトンでもない!
応援歌に聞こえます~
報道されるナルさんを見る度に
品格から遠くなり、薄汚れた飲んべいに見えます。
「さすが雅子様が御育てなされた愛子様です」は
嫌味か? まともな目も無い擁護派。

失礼いたしましたm(_ _)m
プロフィール

Author:やまのこ
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。